文学と服のオハナシ。登場人物は何を着ているの?

文学の登場人物、とくに男が何を着ているのかに注目します

60年代若者ファッションが似合いすぎる数学教授

トマス・ピンチョン「ヴァインランド」

学生運動のムーブメントはアメリカじゅうに飛び火して、なにも考えずに楽しく生きていた地方の大学生たちにまで拡がります。

 

金持ちの子弟専用のお気楽な大学でにわかに盛り上がった学生運動のリーダーが、ウィードという名前の数学教授。当人は、数学以外のことは特に考えることもなかった人間ですが、なぜか担ぎ出されて、やがてファッションもこんなふうに…

 

「白いインド綿のネールシャツに、貝殻のネックレス、ベルボトムのズボンには、ダフィーダックが総天然色でプリントしてある。」

 

ネールシャツは、インドのネール首相にちなんで名付けられたシャツです。襟の返しのないスタンドカラーのシャツなので、ネクタイはしたくてもできません。

 

ダフィーダックは、ワーナーパイオニアのアニメ、ルーニー・テューンズのキャラクター。

 

若くて自由な新しい時代を象徴するファッションですよね。これを中年で着るのはむずかしいだろうに、ウィードはこんな服装がとても似合う男として描かれます。

 

ウィードが思想的・政治的な人間なら、このファッションの発する言語を読み解いて、きわめて知的に着こなす可能性はあります。

  • ネールシャツ=インドへの傾倒、自然回帰。ノーネクタイだから組織社会の否定
  • 貝殻のネックレス=自然回帰、男だけどネックレスということで男女平等
  • アニメのキャラ入りのベルボトム=既存の価値の否定

 

でも、違うんですね。ウィードにはじつは思想的、政治的な要素はほとんどないので、ファッションの発する言語を理解して着こなしているわけではありません。なのに、なんで似合っちゃうのでしょうか?ルックスに恵まれて何でも似合う人だったのかな?

 

いいえ、そこは当然しっかり考えて描かれています。

 

ウィードは数学者です。学生運動に担ぎ出された、学問以外に関心のなかった人物というだけの設定なら、数学じゃなくてもいいでしょう。同じ理科系でも、物理学も生物学もあるのになぜ「数学」?

 

数学では物理学のような、現実の物の重さや形、運動を扱うことはありません。生物学のようにやがて死んでいくものを相手にする学問でもない。時間だって、数学よりは物理学が必要とする概念でしょう。

 

数学には、現実の物も時間も死も関係ない。考える必要がありません。年齢を重ねる意味がさしてない学問です。たぶん、そのせいで、数学の天才にはときどきアタマのいい中学生のような顔をしている人がいるんだと思います。妙に若い。今のコンピューターの元祖であるチューリングマシンを作った、アラン・チューリングなんて典型的じゃないでしょうか。

 

中年なのに、永遠の若さを体現するようなファッションが似合ってしまうのは、ウィードが数学者という、永遠の若者みたいな存在だから。その意味でウィードは、思想はなくとも若者のリーダーにふさわしい「ホンモノ」だったんです。

 

文科系の教授でこのファッションが似合うヤツがいたら、そいつはかなりの大嘘つきだと私は思います。スティーヴィン・キングのホラー映画で最初に殺されるヤツ。

トマス・ピンチョンは少年ジャンプを読んでいたんじゃなかろうか

ヴァインランド、先を読みすすむとトンデモニッポンが舞台になります。生真面目にニッポンを愛している人は読むのをやめましょう。タランティーノOKなら大丈夫。

 

ピンチョンは「少年ジャンプ」を読んでいたんじゃないか、と思われるフシがあります。

 

まだ大学生だったころ、同年代の男の子が読んでいる少年ジャンプを見て「アタマがおかしくなりそうだな」と思った覚えがあります。その男の子は、私なんかより数倍成績のよい理科系さんだったので、若者だった私は非常に混乱しました。

 

でも、そのアタマのおかしくなりそうな感じをピンチョンが描くと格別なんだな、なぜか。

 

 

現在、混乱しながら読書する愉しみをフォークナーでおぼえ、ジェイムス・エルロイでその傾向を強めた私は、多少アタマがおかしくなったって気にしません。ドグラ・マグラ二回読んでもいちいち気が狂ったりしてないし。だから、少年ジャンプもいけるかもしれない。まあ、50代のおばさんがそうする必要いっさいないけれども。

 

さて、このトンデモニッポンを代表するキャラであるフミモタ・タケシというおじさんの服装は、とても悪趣味です。

 

まず登場のシーンでは、追われている身を隠すためにミュージシャンに化けるとはいえ、ブロンドのヒッピー・ヘアのかつらにアロハシャツ、ケバい花柄のベルボトムパンタロン、真っ黒なゴーグルスタイルのサングラス、麦わら帽子、仕上げに年代物のウクレレをぽろんぽろん鳴らして。すべてが過剰なファッションです。ものすごく目立つだろうな。身を隠すという目的にあっているのかいないのかよくわからない。

 

普段の姿は、小豆色の地にターコイズの模様がはいるスーツ。もっとド派手なスーツなら、「あ、舞台衣装なのかな…芸人なのかな…」という安心感が持てますが、舞台で着るにはやや地味だから、かえって怪しくてたまらない。

 

こういうスーツって、仕立てなんでしょうか?たしか世田谷にそんな仕立て屋があると聞いたことがあるけれど。

それとも、新宿の三平ストアで買うのかな?

 

このおじさん・タケシが、ヴォンドと人違いされて「一年殺し」というニンジャの技をかけられるという、ほんとにメチャクチャな話です。だいたい、西洋人のヴォンドと東洋人のタケシは似ていないと思うし、ヴォンドとタケシでは、ファッションセンスに相当の開きがある。なぜ間違うのか?もう作者のいたずらとしか言いようがない。

 

「一年殺し」は、経絡点に突きを入れると相手が一年後に死ぬという必殺技。少年ジャンプちゃんと読んでなかった私でも、これって「北斗の拳」の影響じゃないかと思います。「おまえはもう死んでいる」とケンシロウに言われてから死ぬまでの期間が、数秒後か、一年後かという違いがあるだけで。

 

先日はじめて行った美容院で、白髪染めの待ち時間にマンガを勧められました。見ると、鏡の前に北斗の拳全巻がずらり。脇にある水槽にはベタが一匹だけで泳いでいる。闘魚だから二匹入れると闘ってしまうんだよね、と美容師さんがうれしそうに語ってくれました。ああ、格闘系の店だったのね…おばさんの私が場違いなこんな店に来てしまったのは、クーポンが安かったから。ただ、それだけ。

 

お得に目がくらんでしまいました。こうして金で、経済で流されていくのは私ばかりではないようで、ヴァインランドの後半では、理想主義のヒッピーたちが現実の経済社会にとりこまれていく姿がしみじみと描かれます。

 

女はウェイトレスになったり、男は半端仕事で食いつないだり。その半端仕事の出どころは不動産屋や土地のディベロッパーだったりする。

 

舞台はカリフォルニア。トンデモニッポンを描くときにはなかった悲しみがそこにあります。

 

ピンチョンのヴァインランドで男はなにを着ているのか

敵方であるヴォンドは、ときにはダブルニットのスーツというものを着ています。

 

このダブルニット、私も知りませんでした。調べてみたら、伝統的なスーツの素材ではなくジャージやプルオーバーに使われる素材。

 

しかも、色はライトベージュです。ベージュというのは値段の出る色なので、リッチ系で保守的な層の着こなす色です。ストリートファッションやパンク、不良系のファッションでベージュが好まれることはあまりない。

 

ヴォンドは、カジュアルダウンも楽にこなすエリートであるというわけで、いかにのもの美男ではないけれど、魅力のある男というところでしょう。ダニエル・クレイグみたいな感じかな?

 

魅力があるのはわかるけど、ヒッピームーブメントをひきずりながら、そんな男と関係を続けるのはどうなのかな…このフレネシの、矛盾にみちたキャラ設定がこの小説のいちばんもしろいところです。

 

一方、元夫のゾイドは、フレネシにヴォイドからの逃避先としてたまたま選ばれただけの存在です。とても短い結婚期間を経て、フレネシは子供を産み捨てて出ていってしまいます。

 

この小説には、フレネシをはじめ、政府側に寝返って密告屋になる人物が多く出てくるのに、ゾイドは寝返りそうで寝返らないという絶妙のバランスを保って生きています。このバランスを保っていられるのは、ゾイドが巧妙だからではなくて、周囲から「危険視するには無能すぎ、無害とみなすのもちょっとな…」と思われているから。

 

アホでよかったね!ってことなんでしょうか?

 

このアホぶりは服装にもちゃんと表れていて…60年代はその時代のファッションと当人の思想が一致していたからよかったけど、この小説における現代は80年代。思想なき明るいファッションにも、ロンドン発祥のパンクにも、まったくついていけないゾイドの恰好はどうなったかというと…?

 

精神その他にかなり問題のある敵の刑事からさえ「その服、なんとかしたほうがいい」と言われる有様。古典落語風に言うと、「着てりゃ服だが、脱げばボロ」というところかな?

 

唯一の救いは、ド派手な色のドレスで女装して精神障害者のフリをする姿を、愛娘のボーイフレンドのパンク青年に「カッコイイ!」と思ってもらえていることでしょうか。

 

物語は中盤になると、舞台はカリフォルニアから日本に移ります。これがまた、タランティーノの勘違いニッポンの文学バージョン…楽しいですよ。

文学の登場人物が何を着ているのかに注目するよ  

 文学の登場人物が何を着ているのか。現代もの以外はあまりわからないで読んでいることも多いんじゃないでしょうか。それでも、ちゃんと作品のスピリットが伝わるのが名作ってものだと思うけど、ちょっと服に注目して文学読んでみようかな、と思い立ちました。

そういうわけで、ブログをはじめましたよ。第一回めはトマス・ピンチョンの「ヴァインランド」

ヴァインランド (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第2集)

ヴァインランド (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第2集)

 

アメリカの大学生が読んだフリしたい本のベストワン「重力の虹」で有名なトマス・ピンチョンが、17年の沈黙を破って発表した作品です。「重力の虹」の難解・重厚な作風を期待した読者は、とても、とてもガッカリしたらしい。

 私はいきなり「ヴァインランド」を先に読んでしまったので、ガッカリすることはありませんでした。

 むしろ、たいへん面白く読めました。クエンティン・タランティーノの映画みたいな感じで楽しめます。

ひと言でいえば、たいへん頭のいい人が絶え間ない悪ふざけの中で何かを語る感じです。タランティーノ映画に知識や教養を、必要以上にこれでもか、これでもかと詰め込んだら、こんな感じになるかもしれないですね。

 60年代のヒッピームーブメントをそのままひきずって80年代をむかえ、精神病患者を演じて政府の給付金をちょろまかしつつ「反体制」を貫くというサイテーなやり方で楽しく生きているオヤジ・ゾイドがこのストーリーのとりあえずの主人公です。その元妻フレネシは60年代には戦闘的なカメラウーマンでしたが、現在行方不明。

 

服に関してですが、この小説ではヒロインであるフレネシが「制服姿の男が好き」という設定になっています。制服姿の男が好きであるがゆえにフレネシは敵である政府側の男と関係を持ってしまいます。こりゃあ、不幸だなあ。

制服って、学校の制服も、居酒屋の店員の制服も、スポーツのユニホームも、なにかの団体への帰属を意味しますよね。この団体へのきっちりした帰属っていうのがまず、ヒッピーの生き方と折り合いが悪いでしょう。

さらに始末の悪いことに、フレネシが特に大好きなのは、警察の制服や軍服。となると、制服に集団への帰属に加えて別の意味が出てきます。

政府による「権力の行使」→「ときに暴力的な行使」という意味合い。これまたヒッピーの生き方にあわない。あわないどころか、全否定でしょう。60年代的理想からすれば「権力の暴力的な行使」なんて全否定。だって、ラブ・アンド・ピースだもの。

なのに、フレネシは、「権力の暴力的な行使」の象徴のような男ヴォンドと関係をもってしまいます。ヴォンドは、実はあからさまな制服は着てはいません。大物なので、高級スーツに身をつつんでいます。加えて、「ファッショナブルな八角形の眼鏡フレーム、ロバート・ケネディ風の髪型」

 おやおや、けっこうかっこいいのでは?